回想録⑦

30代になった俺は、強化副部長だったり、国体陸上総監督だったり、町役場では教育委員会から環境衛生課に異動になったり忙しい?
まず、役場というところは選挙で町長が変わるたびに、管理職以下ヒラ職員でも向きの悪い人間はどこにでも動かされるから、俺みたいなはっきりした人間はまともに煽りを喰らう(笑)
時はちょうど長崎で高校生の全国大会であるインターハイ開催が決まり、これからその対象学年が高校に上がって来ようとしていた時期で、少なからずショックを受けた俺は「陸上をやらせない気なら、辞めて漁師しながらでも地元優勝やってやるぞコラァ!」と力んでみせていた。
なぜなら、その数年前に小学生だった林田真那美(現五島高校教諭)を自分の町で発見し、小学校の指導者と中学の指導者にお願いして口加高校へのラインを引いていたし、その周辺にも数人の候補選手を発掘済みだったから。
それを証明する面白い話として、インターハイ誘致が決まり、県陸協が開催した成功させるための決起集会みたいなイベントで、副部長の立場で仰せつかった決意表明の依頼の挨拶で、壇上から県下から集まった郡市陸協のお偉いさん方に向かって、「いいですか!僕は6年後の地元インターハイで必ず優勝者を出します!出せなかったら陸上はキッパリ辞めますよ!」と自分の決意表明をしてしまっていた?アホでしょ。
その後の立食パーティーで、「まだ対象になる選手たちが小学生なのに、何をたわけたことをぬかしとるか!」と先輩各位にどやされた記憶がある。
無理もない、長崎の陸上の歴史上インターハイ優勝者は50数年の間に10人も居なかったのだから、若造が何を血迷うか?的な感情だったのだと思う。
ただ、この時すでに地元島原半島で噂される小学生を見て回り、根回しを少しずつ進めていた俺にとって、「目指さない夢は叶わない!」ことを結果で証明していくしか方法は無かった。
そして数年後、口加高校に奇跡の選手たちが勢ぞろいする。
37才の秋、高知国体でその林田真那美が女子円盤投げで2年生優勝、人生初の全国大会優勝者を育てた忘れられない年となった。
口加高校創立100周年を1ヶ月後に控えていたこともあり、何故か一発の功労が認められ?そのセレモニーの中で感謝状を頂いた。いまだに基準のわからない受賞だったが、もらった銀盃は祝賀会の二次会で回し飲みをしてる間に無くなった(笑)
そして次の年の8月、2003年長崎ゆめ総体が幕を開けることとなる!
ホラ吹き野郎から予言者へ?
俺は謎の進化を遂げる

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