回想録⑥

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マンションから見えた諫早の夕暮れ。

大学から長崎に帰った頃の自分は、長崎から日本一を育てたい一心から、少しでも良い環境で指導することばかりに囚われていた。
今の自分にそんな実力も評価も無いことなどわかっていながら、日本一を育てるための条件だけは妥協できずにいたから、その思いは空回りを続けたが今思えば当たり前のことだった。
アメリカで気づかされたこと、どんな環境か?ではなく、何処で何をやりたいのか?ということ、自分のやりたいことを生活の中心におき、仕事はお金を得るためにやる!つまり、陸上競技に生きるために仕事は何でもやろう!という結論。
帰国後すぐに、地元で応援してくれていた有力者を自らたずね、次の年加津佐役場の試験を受けた。
母校には、俺たちが北九州総合優勝したことのご褒美?で、陸上専用グラウンドが出来ており、投てき投げ放題の環境があった。
28才にして、ようやく腹の座った俺は夢に向かって始まる勝負の日々を本当に心から楽しんでいた。
その頃の俺を支えてくれた地元の陸上関係者の皆さんに、今も頭が上がらない?若さもあり誰とでも衝突し、選手たちには生きるか死ぬかくらいの勢いで練習を課していたから、保護者や学校、自分の職場にも今では考えられない迷惑をかけたに違いない!
それでも、どんな時も俺の可能性を信じてくれた数少ない恩人たちのおかげで、そのデタラメが林田スタンダードになって行く。
そもそも、長崎県の競技人口と当時の中学生の競技レベルから、全国優勝はおろか入賞すら毎年数人という県勢の状況だったから、強化合宿に大阪から辻先生をよんだ時なんか、「大阪の中学生以下やな!いくらお前でもこのレベルから全国優勝なんか絶対出来んわ!」などと酷いことを言いよる。
当時の教え子たちにとって俺は、目の前にいるだけで足が震えるような存在だったらしい?
自分ではめっちゃ優しくしていたつもりだったのに・・・

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