回想録⑤

さて、そんなこんなで長崎に帰った俺に県陸協から強化部の投てきコーチになって欲しい旨の申し出があり、23才で強化部入り、29歳の時には強化副部長をしていたから、その当時他県では考えられない?若造の快進撃だったかもしれない。
そんな流れで、俺を大抜擢してくれた強化部長と共に、長崎県の陸上界を大改革して行くことになる訳だが、就職浪人中グレかけていた俺を救ってくれたある出来事がある。
長崎に帰るとすぐに、恩師で先輩で兄貴でもあった早野さんが俺に言った「教師を辞めてアメリカに留学する!」と、当時の俺には到底理解できなかったが、この人が言い出したんだから必ず行くやろな!と諦めて、準備期間中の約1年あまり、毎日のように諫早の早野邸に泊り込み、毎晩カラオケを歌いラーメンを食って語り明かした。
早野さんは大学時代からやりたかったマーケティングの勉強をしにアメリカの大学へと旅立った。
ますますやる気をなくした俺は、長崎に帰って来た目的すら忘れかけていた、そんな時、早野さんからそんな事なら一度アメリカに来いよ!と誘ってもらい、数ヶ月アメリカのコロラド州ボルダー(当時、日本陸連のマラソン代表チームが高地トレーニングで使っていた街)に行くことになる。
俺が26才の夏の事である。
早野さん曰く、あの頃お金が無くてお前に何にもしてやらなくてすまなかった、お互いにひと段落したらまた行こうな!らしかったが、俺は毎日あちこちに連れて行ってもらい、ゴルフもしたし1週間近く車で旅行もしたし、何よりもマラソントレーニングを毎日間近で見られた経験は貴重だった。
このボルダーでの出来事を詳しく話そうとすると回想録が終わらないのでここも割愛させていただくが、このアメリカでの生活が俺に日本で何をすべきか?そのためにどう行動すれば良いか!を気づかせてくれた。
この辺の話は、飲みながら喋ると面白いのだが、残念です。
そしていよいよ母校口加高校陸上部を指導するためだけの人生がスタートするわけだが、このことを指して「今回の人生は陸上一本で行く!」と俺は周囲に語っていたと思う。
意味不明でしょ?
気づけば31才にして国体で総監督をしていたのだから、他県の指導者からは「長崎も人材不足やなぁ」的な陰口を言われていたに違いない(笑)
それでも、多くの年上の先生方をコーチに従え、強化合宿や練習会を数多く企画してはいろいろな批判にさらされながら、長崎の陸上競技のレベルは県別順位の下位組から中堅クラスへと飛躍していった。

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